「基礎研究」の重要性について

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基礎研究の重要性については、これまでに多くの研究者によって訴えられてきました。とりわけ、ノーベル賞受賞者の記者会見では毎度のごとく言及されています。このページでは、基礎研究がなぜ重要なのか、支援すべきなのかについて考えてみます。

 

「基礎研究」について

基礎研究」とは、ある学問分野の理解の根底となる成果を目指して、純粋な学問的興味から進められる研究を指します。

文部科学省のウェブページになかなかカッコイイ文章が掲載されていますので、冒頭部分を抜き出して紹介します。

基礎研究は主に「真理の探究」、「基本原理の解明」や「新たな知の発見、創出や蓄積」などを志向する研究活動である。それは誰も足を踏み入れたことのない知のフロンティアを開拓する営みであり、研究者たちは絶えず独創的なアイデアや手法を考案し、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ未知を既知へと変えていく。

「真理の探究」は全ての研究者が目指している大きな目標です。人生を賭けている人もいるでしょう。「未知を既知へと変え」ることを生業とし、人類未踏の地に旗を立てることを使命とするのが「科学者」なのです。

 

「基礎研究」と「応用研究」

さて、「基礎研究」と対をなすものに「応用研究」があります。こちらは、産業的に役立てることを目指し、営利的な目的を主として行われる実用志向の研究を指します。

いわゆる「カネになる研究」としての側面が強いですが、その分、研究成果が社会に還元されるまでのスピードは基礎研究に比べて遥かに速いです。


例えば「触媒」はその一例です。

触媒(catalyst)は化学結合の組み換えを容易にする作用により、化学反応の加速に用いられています。「触媒」という概念がベルセリウス(Jöns Jakob Berzelius)によって提唱されたのは1835年ですが、鉄触媒を用いた画期的なアンモニア合成法である「ハーバー・ボッシュ法」が実現したのはそれから70年以上が経過した1909年のことでした。

ハーバー(Fritz Haber)がアンモニア合成法の新規開発に着手したのは1904年ですから、5年余りというスピードで反応開発が実現したことになります。当時のドイツで「空気からパンを作る」と称されたハーバー・ボッシュ法は、それから100年以上経った現在でも窒素固定法の主力であり、人類社会の人口増加を支え続けています。

この画期的な成果は紛れもなく「応用研究」によるものですが、その基盤となる知識を提供したのは「基礎研究」に他なりません。基礎研究の成果が、応用研究の「武器」、つまり選択肢を広げたのです。


しかし、ベルセリウスは1835年の時点で、鉄触媒を使えば効率よくアンモニアを合成できると思い付いたでしょうか?

基礎研究の成果は、その時点では何の役に立つか分からないものが大半です。つまり、現在を生きる人々にとって「基礎研究への投資」とは「何の役に立つか分からないものへの投資」でしかありません。

 

「基礎研究」の重要性

「何の役に立つか分からないものに投資する奴がどこにいる!」というのは尤もな視点です。リターンを重んじる投資家にとって、投資資金が回収不能になるのは死活問題です。

そうですね。確かに「何の役に立つか分からないもの」というのは少し語弊がありました。「何かの役に立つ可能性を秘めたもの」と言い換えておきましょうか・・・。・・・え、何も変わっていない?


では、ここで一つ、例え話を紹介してみようと思います。

以下の内容は上記の投稿にインスパイアされたものです。


研究を「作物を育てる」という行為に例えると、基礎研究は「畑を耕す作業」、応用研究は「種を撒く作業」と言えます。

ここで「畑を耕す作業」の意義とは何でしょうか。どこを耕せば良い実がなるのか、収量を上げられるのか、育ちが早いのか、なんてことは実がなるまで分かりません。結局のところ、畑の面積は広ければ広いほど収量は上がるでしょうし、良い実の数も増えるでしょう。そのためには畑をできるだけ広く耕す必要があります。基礎研究の一つひとつが「鍬の一振り」に相当しています。

翻って、現在の日本の研究者は、資金を獲得する際に「あなたの研究はどう役に立つのですか?」という問いに対峙することがしばしばあります。しかしこれは「あなたの鍬の『この一振り』は今後収穫されるであろう果実のどの部分を成長させるのですか?」と聞くのと同じことです。

「何がどう役に立つか」という視点に立つということは、「何がどう役に立たないか」を決めることと同じです。この「鍬の一振り」は役に立つ、あの「鍬の一振り」は役に立たない、というのを「畑を耕す前」から見極めるというのは非常に困難です。実際には、成果の想定しやすい「種を撒く作業」、つまり「応用研究」に予算がつきがちであり、その結果、畑を耕さずに種ばかり撒いてしまっているのが日本の現状です。

「せめてエリアを絞って耕せないのか?」という意見は尤もに思われますが、その発想は結局、豊富な果実を諦めることに繋がりかねません。上記の投稿ではアインシュタインの例が持ち出されています。相対性理論が1920年代当時、何の役に立つのかと問われて答えられる物理学者は果たして存在したでしょうか?

100年前の最先端の研究が現在の最先端技術の基礎になっているという事例は探せば幾らでも出てくるでしょう。現代人は今日も何気なくスマートフォンでインターネットサーフィンを楽しんでいます。現代社会の豊かさは過去の基礎研究の成果の上に成り立っているのです。

 

(おまけ)「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」

歴史学者のヨハン・ホイジンガは1938年に著名な『ホモ・ルーデンス』を発表します。彼は「人間」を次のように説きました。

人間とは「homo ludens=遊ぶ人」のことである。遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質である。

「真理の探究」は全ての研究者が目指している大きな目標であると同時に、「遊ぶ人」としての人間の好奇心を満足させ得る行為でもあります。ホイジンガは「遊びは文化に先行」し、文化は人間の遊びによって形成されてきたと解釈します。この文脈において、研究を「遊び」の一つと捉えるならば、研究に意味を見出すことはナンセンスではないでしょうか。何せ、「遊び」なのですから。


16~17世紀以降の近代ヨーロッパでは、それまで哲学者と呼ばれた人々が「自然科学」と「人文科学」に分かれていきました。このうち自然科学は「再現性を追究する知の体系」を確立し、現在の様々な(いわゆる理系の)学問分野へと展開していきます。

科学が飛躍的に発展した現代から振り返ると、人類社会には過去、多くの「遊ぶ人」が居たことを示しているようです。ノーベル賞受賞者に代表されるように、日本からもそのような人々が数多く輩出できていることは、誇るべきことに思われます。社会のゆとりのバロメータと言っても良いでしょう。

「未知」を知り「既知」を使う。この連続が、文化を、文明を創り上げてきたのです。「高い山ほど裾野は広い」とはよく言ったものですね。

 


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