デリー・スルターン朝
デリー・スルターン朝とは、13世紀初頭から16世紀初めまで、北インドを支配したイスラーム王朝の総称である。デリー・スルターン朝は、5つの異なる王朝から構成されており、それぞれがトルコ系またはアフガン系の起源を持っていた。デリー・スルターン朝は、インド亜大陸にイスラーム文化と法律を広める役割を果たし、多くの建築物や文学作品を残したが、内部の対立や外部の侵略によって次第に衰退していった。
最初の王朝は奴隷王朝と呼ばれ、1206年にムハンマド・ゴーリーの軍人奴隷だったクトゥブッディーン・アイバクが創始した。彼はインド最古のミナレットであるクトゥブミナールを建設したが、1210年に死亡した。その後、彼の後継者であるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュやラズィーヤ(女性君主)などが北インドやベンガル地方を征服し、奴隷王朝を拡大したが、1286年に強力な君主だったギヤースッディーン・バルバンが死ぬと王朝は混乱に陥った。
次の王朝はハルジー朝と呼ばれ、1290年に奴隷王朝から離反したジャラールッディーン・ハルジーが樹立した。彼は1296年に甥のアラーウッディーン・ハルジーに暗殺されたが、アラーウッディーンは南インドやデカン高原まで遠征し、インド最大の領土を築いた。彼もまた暗殺された後、マリク・カーフールという宦官が実権を握ったが1320年に殺害されてハルジー朝も終わった。
3番目の王朝はトゥグルク朝と呼ばれ、1320年にハルジー朝から離反したギヤースッディーン・トゥグルクが開始した。彼とその息子ムハンマド・ビン・トゥグルクは南インドまで支配下に置き、一時的に首都をダウラターバード(現在のオーラングザーブ)へ移した。しかしムハンマド・ビン・トゥグルクの圧政や無理な改革によって各地で反乱が起こり、1398年にティムール(タメルレーン)が侵入してデリーを略奪し、トゥグルク朝も衰退した。
4番目の王朝はサイイド朝であり、1414年にティムール代官だったヒズル・ハーンが建てた。しかしサイイド朝は弱小な政権であり、周辺国家や貴族勢力と対立したり従属したりしていた。1451年に最後の君主アラム・シャーフがローディ族へ譲位し、最後の王朝であるローディ族へ移行した。
5番目のローディー朝は、1451年にアフガン系のバフルール・ローディーがデリーを制圧して開いた王朝であり、デリー・スルターン朝の中で唯一のアフガン系王朝であった。ローディー朝は、ジャウンプル・スルターン朝やラージプート諸国と戦いながら領土を拡大し、首都をアーグラに遷都した。しかし、イブラーヒーム・ローディーの時代には貴族と対立し、1526年にムガル帝国のバーブルにパーニーパットの戦いで敗れて滅亡した。これによりデリー・スルターン朝は320年間の歴史に幕を閉じた。
ムガル帝国
ムガル帝国は、16世紀から19世紀にかけて、南アジアを支配したイスラム国家である。その名は、ティムール朝の玄孫であり、モンゴル帝国の末裔でもある建国者バーブルの出自に由来している。王朝名の「ムガル」とは、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール; ペルシア語: مغول, ラテン文字転写: Mughūl)の短縮した読みであるムグル(Mughul)が、ムガル(Mughal)に転訛したものである。
バーブルは1526年にデリー・スルターン朝を倒し、インド北部に帝国を樹立した。彼の孫である第3代皇帝アクバルは、ヒンドゥー教徒との寛容な政策や官僚制度の整備により、帝国を拡大し安定させた。その後も第5代皇帝シャー・ジャハーンや第6代皇帝アウラングゼーブなどの有能な皇帝が続き、ムガル帝国はインド半島のほぼ全域を支配するまでになった。しかし、18世紀以降は内紛や反乱が相次ぎ、イギリス東インド会社の勢力が台頭した。1857年に起こったインド大反乱では、ムガル皇帝も反乱軍の盟主として参加したが、イギリス軍に鎮圧されて廃位された。これによりムガル帝国は滅亡し、イギリス領インド帝国が成立した。ムガル帝国は、イスラム文化とヒンドゥー文化が融合した独自の文化(インド=イスラーム文化)を生み出し、絵画や文学や建築など多方面で優れた業績を残した。