量子化学:シュレーディンガーの波動力学

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物質波への序章

1897年にイギリスの物理学者であるジョゼフ・ジョン・トムソンは陰極線の性質を調べる実験において、陰極線が電場によって曲がることを示した。陰極線が磁場によって曲げられることはこの頃までに知られていたため、電場と磁場を上手く組み合せることで、陰極線を構成する粒子の比電荷や質量を測定することに成功した。

更にトムソンは1906年に水素原子に含まれる電子は1個であることを突き止めた。それまで物質の最小構成要素である原子はそれ以上分割できないと信じられていたが、この実験結果により、原子を構成する電子の実体が明らかになってきた。

これらの結果を踏まえると、電子は粒子だと考えるのが妥当であった。トムソンの実験結果はいずれも電子の粒子性を立証していたためである。

それから十年余りが過ぎ、当時博士課程の学生に過ぎなかったルイ・ド・ブロイは1924年、博士論文にて極めて大胆な仮説を世に送り出した。それは前章で紹介したアインシュタインによる光の波動性と粒子性の二重性に関する光量子仮説にインスピレーションを受けて発想されたものであった。

それこそがド・ブロイの物質波に関する「量子論の研究」と題された論文である。波だと考えられていた光が粒子としての性質をもつのであれば、逆に粒子だと考えられている電池が波としての性質をもっているのではないか。ド・ブロイはそのように考えて「物質波」を導入した。


物質は波である

アインシュタインのエネルギーの式$$E=\sqrt{(pc)^2+(mc^2)^2}$$において、波の関係式(この場合は電磁波としての「光」)$c=\lambda\nu$ を代入し、光子の質量$m$を$0$とすると、$$E=p\lambda\nu$$を得る。ここで光子1個のエネルギー$E$は$$E=h\nu$$と表されたから、$$\lambda=\dfrac{h}{p}$$という関係式が得られる。これは波の特徴である「波長」($\lambda$)と粒子の特徴である「運動量」($p$)とを結びつける式であり、波動性と粒子性の二重性を記述する式が導かれた。ド・ブロイはこの式が光のみに成り立つのではなく、万物すべてに対して成立していると考え、「物質波」と名付けた。

これまでの物理学では電子が原子内でどのように安定に存在できているのかについて説明出来ていなかったが、物質波の概念を用いると合理的に説明できる。

電子の物質波の波長を$\lambda$とし、電子が円運動している軌跡の半径を$r$とすると、物質波が定常波として円周上に存在できるためには円周の長さ$2\pi r$が電子のド・ブロイ波長$\lambda$の整数倍にならなければならない。つまり、正整数$n$を用いて$$2\pi r=n\lambda$$という関係式を満たすときに電子は安定な定常状態を形成する。このようにしてボーアの量子条件に理論的な説明が加えられたのである。後に電子が波としての性質を持つことは様々な実験によって確かめられ、1929年に「電子の波動性の発見」の功績によりド・ブロイは37歳の若さでノーベル物理学賞を受賞した。


シュレーディンガー方程式

電子はド・ブロイの言うように確かに波動性を有している。では、波としての電子はどのような数学的表現がなされるのだろうか。スイスのチューリッヒ大学において数理物理学教授を務めていたシュレーディンガーは、ド・ブロイの物質波の概念を基礎として波動方程式を導出した。

《1次元の波動方程式$$\dfrac{1}{v^2}\dfrac{\partial^2 \varPsi}{\partial t^2}=\dfrac{\partial^2 \varPsi}{\partial x^2}$$

ここで$v$は波動の位相速度(波の波数$k$と角振動数$\omega$の比 $v=\dfrac{\omega}{k}$)である。また、$\varPsi$は位置$x$、時刻$t$によって定まる量であり、これをシュレーディンガー方程式における「波動関数」と呼ぶ。

これを1次元空間内に存在する自由電子に適用してみよう。一定の速度$v$で$x$軸上を等速直線運動している自由電子の運動エネルギー$E$は運動量$p(=mv)$を用いると$$E=\dfrac{1}{2}mv^2=\dfrac{p^2}{2m}$$と表すことができる。ここで少々飛躍があるが、波動関数を波の式として$$\varPsi(x,\,t)=A\sin(kx-\omega t)$$と表現することにすると、アインシュタイン・ドブロイの関係式より、波数$k$について $k=\dfrac{p}{\hbar}$、角振動数$\omega$について $\omega=\dfrac{E}{\hbar}$ がそれぞれ成り立つから、$$\varPsi(x,\,t)=A\sin\left(\dfrac{p}{\hbar}x-\dfrac{E}{\hbar}t\right)$$と書き直せる。これが波動関数の実体かと思われるかもしれないが、実際にこれは波動方程式を満足することはない。残念なことに$\varPsi(x,\,t)$は三角関数を幾ら合成しても波動方程式を満たすことはない。

そこでシュレーディンガーは波動関数$\varPsi(x,\,t)$が実関数(実数を値域とする関数)ではなく、一般に複素関数であると考え、虚数単位$i$を波動関数に導入した。この考えに基づけば、波動関数は$$\varPsi(x,\,t)=A\exp\left\{i\left(\dfrac{p}{\hbar}x-\dfrac{E}{\hbar}t\right)\right\}\tag*{(★)}$$と書き直される。$(★)$式の両辺を$t$で1階微分し、両辺に$i\hbar$を乗じると、$$i\hbar\dfrac{\partial \varPsi}{\partial t}=E \varPsi \tag*{(1)}$$を得る。また、$(★)$式の両辺を$x$で2階微分し、両辺に$-\dfrac{\hbar^2}{2m}$を乗じると、$$-\dfrac{\hbar^2}{2m}\dfrac{\partial^2 \varPsi}{\partial x^2}=\dfrac{p^2}{2m} \varPsi \tag*{(2)}$$を得る。$E=\dfrac{p^2}{2m}$ であるから、$(1)$式と$(2)$式の右辺は等しく、これより$$i\hbar\dfrac{\partial \varPsi}{\partial t}=-\dfrac{\hbar^2}{2m}\dfrac{\partial^2 \varPsi}{\partial x^2}$$が導かれる。この方程式こそが1次元自由電子のシュレーディンガー方程式である。

このようにして導出されるシュレーディンガー方程式を解くことによって、1926年、シュレーディンガーは水素原子の電子軌道を求めることに成功した。しかし方程式の解として得られた電子の軌道はこれまで提唱されてきた原子モデルとは全く異なり、空間に広がる確率分布を表していることが分かった。これは後に「Orbital」(=「軌道(orbit)のようなもの」)と呼ばれるようになった。

シュレーディンガーの、波動関数$\varPsi(x,\,t)$が複素関数であるという考えは数学的にも物理学的にも正当性を持って受け入れられた。しかし一方で、波動関数の物理学上の解釈や定義、ハイゼンベルクの不確定性原理の発見などにより、量子力学には解釈上の問題が生じ、量子現象に関する認知学的、哲学的な論争が巻き起こることとなる。


波動関数の「意味」

波動関数を導入したシュレーディンガー方程式を解くことによってボーアの量子仮説を仮定せずにエネルギーの量子化が実現し、量子的な種々の系を説明することができるようになった。しかし、波動関数は複素数であり、実際に観測される物理量ではない(当のシュレーディンガーはいずれ近い将来観測できるようになるだろうと考えていたようである)。

では、波動関数とは一体何を表しており、物理学的にどのように位置づけるべきなのか、という疑問が当初から存在した。

シュレーディンガーの波動力学と、それ以前に成立していたハイゼンベルクの行列力学は互いに等価であったが、位置による表現が可能で、より解析的かつ直感的な波動力学の方が多くの支持を集めた。そのような中で波動関数の物理的な解釈には大きな関心がもたれていた。ハイゼンベルクの行列力学の建設に大きく関わったドイツの物理学者マックス・ボルンは次のような確率解釈を提案した。

《ボルンの確率解釈》
波動関数の絶対値の二乗$|\varPsi(r)|^2$は位置$r$における確率密度であり、位置$r$の微小体積$d\tau$中に粒子を見出す確率は$|\varPsi(r)|^2 d\tau$に比例する

これは「ボルンの規則」とも呼ばれる。波動関数の絶対値の二乗を考えている理由は波動関数が複素関数であることによる。複素関数$\phi(z)$の絶対値の二乗は共役複素関数$\phi^{*}(z)$との積で表現できるためであるが、なぜ波動関数の絶対値の二乗が確率密度に比例するのかという点について、量子力学からは何ら演繹的な答えは得られていない。シュレーディンガーやアインシュタインは物理現象が確率的にしか記述できないというボルンの説に強く反対したが、最終的にはこの確率解釈を受け入れることとなった。

ボルンの確率解釈によると、全空間で粒子を見出す確率は100%であることが要請されるため、波動関数は次の関係式を満足する必要がある。$$\int |\varPsi|^2 d\tau=\int \varPsi^{*}\varPsi d\tau=1$$この条件式は「規格化条件」と呼ばれ、この関係式を満たす波動関数は規格化されているという。波動関数の数学的な取り扱いの詳細については次節以降で解説する。


「シュレーディンガーの猫」

理系文系を問わず、「シュレーディンガーの猫」という言葉を聞いたことがある人は多いだろう。これは波動関数の確率解釈を批判するための単なる思考実験に過ぎないのだが、認知論的な部分がやや大げさに取り上げられてオカルトやフィクションの題材となることもある。

密閉された箱の中に放射性ラジウムと、ガイガーカウンターを1台、毒ガス発生装置を1台入れておく。箱の中のラジウムがアルファ崩壊によって$\alpha$線を出すとガイガーカウンターがこれを感知し、毒ガス発生装置が作動する仕組みになっている。さて、この箱に猫を一匹入れるとする。毒ガスが発生すると猫は死ぬが、ラジウムがアルファ崩壊しなければ毒ガスは発生せず猫は生き残る。それでは、一定時間後に猫は生きているのか、それとも死んでいるのか―――これが「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験の概要である。

勿論、シュレーディンガーが猫嫌いだったという訳ではない。箱の中に入れるのは犬でも鳥でも何でも良いのであるが、重要なのは全く異なる2つの状態が同時に共存し得るという解釈上の「パラドックス」の存在を指摘した点にある。

ボルンやハイゼンベルクは、波動関数の絶対値が粒子の存在確率密度に比例するという確率解釈を提唱したが、これはそれまでの物理学の考え方、つまり、系の現象は因果律に従っており、時間追跡可能で予測可能である、という物理学の理念を真っ向から否定するものだった。

現実には生きていると同時に死んでもいる猫というのは存在しない。それにもかかわらず波動関数が異なる状態の重ね合わせを生じさせるという説明は、シュレーディンガーにとってどうしても納得できなかったようだ。アインシュタインも「神はサイコロを振らない」という言葉にあるようにボルンの確率解釈を批判した。

しかし彼らの反論も虚しく、ボルンの確率解釈は量子力学のスタンダードとして徐々に認知されるようになった。このように量子力学の現象を確率論に基づいて解釈するという考え方は、これを提唱したボーア研究所の所在地に因んで「コペンハーゲン解釈」と呼ばれる。


ここまで2節にかけて、シュレディンガー方程式が導出されて量子力学が成立を見るまでをざっとおさらいした。次節ではシュレディンガー方程式を簡単な系に適用して解くことで量子力学の理解を深めていくことにする。



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