Q.
求核性と塩基性の違いがよく分かりません・・・。
A.
求核性は炭素原子に対する親和性、塩基性はプロトンに対する親和性を指します。
【解説】
大学の有機化学で$\mathrm{S_N}2$反応を学ぶ際に求核性と塩基性というファクターが重要だと叩き込まれます。しかしこの尺度の根本的な違いをすんなり理解できる人はそれほど多くなく、毎年かなりの数の学生がここで一度脱落してしまいます。
初学者が求核性と塩基性をごっちゃにしてしまうのには色々な理由が考えられますが、一番の理由は「求核剤も脱離基も塩基として働くことがある化学種だから」に尽きるでしょう。反応性を議論する場合、「塩基」という言葉の意味は特に注意深く読み取る必要があります。
求核性と塩基性の違いが理解できていないと、例えばハロゲン化物イオンの求核性と塩基性の強さが逆転する現象が全く説明できません。言い換えれば、この順序になることを正しく説明できれば求核性と塩基性の違いは把握できていると言えるでしょう。
求核性:$\mathrm{I}^{-}>\mathrm{Br}^{-}>\mathrm{Cl}^{-}>\mathrm{F}^{-}$
塩基性:$\mathrm{F}^{-}>\mathrm{Cl}^{-}>\mathrm{Br}^{-}>\mathrm{I}^{-}$
求核性と塩基性はいずれもアニオン性試薬の反応性を表す尺度ですが、両者の違いを理解するためにはそれぞれが具体的にどのような性質を指しているのかを理解しなくてはいけません。
では、例として以下のような$\mathrm{S_N}2$反応を考えてみましょう。
図.$\mathrm{S_N}2$反応
$\mathrm{S_N}2$反応の主な役者は「求核剤」と「脱離基」です。この反応では、求核剤がハロアルカンの背面から炭素原子にアタックし、活性錯合体を形成して生成物に至ります。
まず押さえておくべき重要なポイントは「求核剤の求核性が強いほど$\mathrm{S_N}2$反応は起こりやすくなる」という事実です。
「求核性」というのは「炭素原子に対してどれだけ求核攻撃しやすいか」の尺度です。求核の「核」とは原子核のことを意味しています。求核性が高い試薬は炭素原子と結合を作る能力が優れている試薬と解釈することができます。
$\mathrm{S_N}2$反応において、求核剤は元々存在している脱離基を追い出して炭素原子と新たな$\mathrm{sp}3$混成軌道を形成します。求核剤と炭素原子が接近したときに、両者の$\mathrm{p}$軌道の重なりが大きいほど活性錯合体のエネルギーが安定化します。これにより、$\mathrm{p}$軌道が広く分極しやすいほど遷移状態を越えるのに必要な活性化エネルギーが下がり、結合が生成しやすくなるのです。つまり、求核性は速度論的な反応性の尺度と捉えることができます。
周期表の下の方の原子ほど$\mathrm{p}$軌道が広くなるため、ハロゲン化物イオンの場合、求核性は$\mathrm{I}^{-}$の方が強く、$\mathrm{F}^{-}$が最も弱い、ということになります。
一方で「塩基性」は「プロトンに対する親和性」の尺度を指します。塩基性が強い=プロトンとの親和性が強い=プロトンをがっちり掴んで離さない、というイメージです。塩基性が強いほど、アニオンはプロトンと結合したくてうずうずしていて、プロトンと出会った瞬間にすぐ結合してしまいます。
プロトンは$\mathrm{s}$軌道しか結合に関与しないため、結合相手となる塩基の$\mathrm{p}$軌道が小さくて硬い(分極しにくい)ほど、軌道が強く重なり合います。つまりハロゲン化物イオンの場合、求核性とは反対に$\mathrm{F}^{-}$(硬い塩基)の方が塩基性が最も強く、$\mathrm{I}^{-}$(柔らかい塩基)は塩基性が弱い、ということになります。
強力な塩基は不安定な状態で系中に存在することになるため、可能な限り速やかに結合相手のプロトンを見つけて結合を作ろうとします。これは要するに強力な塩基の(自由)エネルギーは電離している時に比べて相対的に高くなっているということを意味しています。つまり、塩基性は熱力学的な反応性の尺度と捉えることができます。
以上のことを考えると、$\mathrm{CH}_{3}\mathrm{I}$の方が$\mathrm{CH}_{3}\mathrm{F}$や$\mathrm{CH}_{3}\mathrm{Cl}$よりも$\mathrm{S_N}2$反応を起こしやすいことが理解できます。実際に、例えば$\mathrm{C}_{2}\mathrm{H}_{5}\mathrm{I}$は$\mathrm{C}_{2}\mathrm{H}_{5}\mathrm{Cl}$の$100$倍近く$\mathrm{S_N}2$反応を起こしやすいことが知られています。
一般に、強い塩基がプロトンをまとっていない「裸のアニオン」として存在するのは非常に不安定です。即ち、プロトンが系中に存在しないDMFやトルエンなどの非プロトン性溶媒を用いた場合、$\mathrm{CH}_{3}\mathrm{Cl}$やエタノールなどは$\mathrm{S_N}2$反応を起こしにくくなります。そこへアルコールや酢酸などのプロトン性酸触媒を加えてやると、反応が進行するようになります。これは、脱離基である$\mathrm{Cl}^{-}$や$\mathrm{HO}^{-}$といった強塩基が、脱離後にプロトンと結合(もしくは溶媒和)できるようになり安定化することで逆反応が起きにくくなるためです。
ある基質・実験条件に対して、$\mathrm{S_N}2$反応が起こるのか、それとも他の反応が起こるのかは、求核剤の求核性と脱離基の塩基性に大きく支配されていますが、溶媒効果や基質の立体障害などにも大きく依存します。ですが、求核置換反応と脱離反応の選択性を理解するには、何よりもまず求核性と塩基性の違いをしっかり押さえておくことが最重要です。