有機化合物の構造解析~HNMR編~
$\require{mhchem}$
HNMRとは?
NMRとは、核磁気共鳴分光法 (nuclear magnetic resonance spectroscopy) の略称で、奇数個の陽子または中性子をもつ核種($\ce{^1H}$、$\ce{^13C}$、$\ce{^15N}$、$\ce{^19F}$、$\ce{^31P}$)はスピン角運動量が正であり磁気モーメントを生じているため、外部から磁場を掛けることによって、核は低エネルギーの$\alpha$スピン状態から高エネルギーの$\beta$スピン状態へと遷移します(この遷移を「スピンの反転」ということがあります)。このように外部磁場によって2つのスピンのエネルギー準位へと分裂することをゼーマン分裂といいます。
このエネルギー差$\varDelta E$に対応する周波数の電磁波を照射することで、核が電磁波を吸収して$\alpha$スピン状態から$\beta$スピン状態に反転し、励起(excitation)します。照射をやめると励起されていたスピンが緩和(relaxation)し、$\alpha$スピン状態がほとんどを占める熱平衡状態へと戻ります。この一連の現象は「NMR現象」と呼ばれ、$\nu$を照射する電磁波の周波数、$\gamma$を磁気回転比、$B_0$を磁場の強度とすると$$\nu=\dfrac{\gamma}{2\pi}B_0$$の関係が成り立つときに現れます。これより、磁場の強度は操作周波数に比例することが分かりますが、一般に強磁場であるほどNMRスペクトルの分解能は高いので、大きな周波数を発生させられる強力な磁石を備えているほど優れたNMRスペクトルの測定が可能となります。近年のNMR分光計では$\nu$がおよそ$300$~$600$MHz程度のものが主流で、海外には$1000$MHz台の高性能大型NMR分光計があります。
勿論、実際に測定する分子はプロトンなどの核だけでできている訳ではなく、結合の周辺には多数の電子も存在しています。外部磁場に対応して電子による誘起磁場が生じ、原子核が感じる有効磁場は遮蔽(特にこの場合は「反磁性遮蔽」)されます。同じ核種であっても、置かれている化学的な環境によって遮蔽の程度が変わってくるため、遮蔽によるシグナルの違いをスペクトルから読み取ることによって核、即ち原子の化学的環境を調べることができます。
$\ce{^1HNMR}$の場合、核は電子によって遮蔽されるので、シグナルを読み取ることによってプロトンの置かれている化学的な環境を割り出すことができます。分光計の精度や分子の複雑さの程度によっては100%構造決定できるとは限らないのですが、$\ce{^1HNMR}$のスペクトルは構造決定において大きなヒントを与えてくれます。
HNMRスペクトルを読む!
$\ce{^1HNMR}$のスペクトルを読めるようになるためには、まず次の3つの情報について注目しましょう。
①化学シフト
(ピークの位置)
②信号強度
(ピークの面積)
③スピン結合
(ピークの分裂数・分裂幅)
それぞれの項目について解説していきます。
①化学シフト
化学シフトは電子の密度によって変化するため、官能基の種類を特定する際に有用な情報となります。一般に、電子による遮蔽は電子密度が低いほど弱まるため、電気陰性度の大きな原子や電子求引性の官能基が隣接していると、ピークが低磁場側(スペクトルの左側)にシフトします。具体的な数値は以下の表のようにまとめられます。
図1.化学シフト表
各パーツの横に引いてある黒線は、この範囲にピークが出現することを表しています。ただしこれらの数値はあくまでも目安であり、測定溶媒(重水素化溶媒)の種類によっても化学シフトの値が変わってきます。そのため何ppm~何ppmという正確な数値を覚える必要はありませんが、どの辺りにピークが現れるかくらいは覚えておくべきでしょう。特に芳香環のプロトンや、アルデヒド基・カルボン酸のプロトンのシフトは非常に特徴的であり、IRスペクトルデータが無い場合でもこれらの官能基の存在を確かめることができます。
なお、表中の$\ce{R}$は特に断りの無い限り炭化水素基を表し、$\ce{Ar}$は芳香環を表しています。
②信号強度
信号強度はピークの積分値により求められ、特に$\ce{^1HNMR}$の場合は信号強度がプロトン$\ce{^1H}$の個数に比例します。ただし、化学シフトの値によっては2つ以上のピークが重なる場合もあるため、必ずしもプロトンの個数が強度比だけから求められる訳ではないことに注意しましょう。
例として、以下にエタノールの$\ce{^1HNMR}$スペクトルを示します(酸素原子に直接結合しているプロトンは除外しています)。
図2.エタノールの$\ce{^1HNMR}$スペクトル
ピークの横の数字は積分値で、上のニョロっとしたインテグラル風の記号は積分値の大きさを表しています。$\ce{^1HNMR}$のピークは1本とは限らず、二重線や三重線、四重線、もしくはそれ以上の本数に分裂することがあります。分裂の仕組みについては後で「③スピン結合」の項で触れますので、ここでは、ピークが複数に分裂していても、1個の炭素に結合したプロトンに由来するものだということだけ理解しておいて下さい。
スペクトルデータから、1.2ppm付近のピークAの信号強度は3.0、3.3ppm付近のピークBの信号強度は2.0であることが分かります。これより、ピークAを与えるプロトンの個数は3個、ピークBを与えるプロトンの個数は2個であることが分かります。実際、これは$\ce{CH3CH2OH}$のプロトンの個数に対応しており、$\ce{CH3}$のプロトンによるピークがAに対応し、$\ce{CH2}$のプロトンによるピークはBに対応しています。
このように、積分値の比とプロトンの個数比は比例関係にあります。なお、ピークBは約3.3ppmと通常のメチレン基に比べて低磁場側にシフトしていますが、これは隣に電気陰性度の大きな酸素原子が存在することによります。もし信号強度が与えられていなくても、化学シフトの値からプロトンの環境を特定・推測することが可能なのです。実際にスペクトルデータを読み取る際はこれらの情報を統合しながら構造決定していくことになります。
③スピン結合
図2では各ピークが何本かに分裂していますが、これはスピン結合(spin coupling:「J結合」とも呼ばれます)という核スピン間の磁気的相互作用に由来しています。ピークの分裂幅はスピン結合定数、またはJ値と呼ばれ、結合の二面角に関する情報を含んでいます。
スピン結合に関して$\ce{^1HNMR}$で最も重要なのは、隣接する炭素に結合したプロトン同士のスピン結合です。$\ce{H-C-C-H}$という3本の結合を介したプロトン同士は「$n+1$ 則」を満たすように互いのピークを分裂させます。
ここでもエタノールを例にとって考えてみましょう。
図3.エタノールの$\ce{^1HNMR}$スペクトル(再掲)
Aのピークは3本に分裂しており、Bのピークは4本に分裂しています。これは「$n+1$ 則」に照らせば、Aのプロトンが結合しているの隣の炭素にはプロトンが2個結合しており、Bのプロトンが結合しているの隣の炭素にはプロトンが3個結合していることがわかります。
これにより、隣接炭素に結合したプロトンの個数がピークの分裂数から求められるため、プロトンの位置情報の手掛かりを得ることができます。これは有機化合物の構造決定において大きな威力を発揮しますが、炭素鎖が長い場合や環構造を有する場合などは異なるピークが重なったり、多数に分裂した複数のピークが重なって全く別のピークに見えたりすることがあるため、解読作業がかなり複雑になります。有機化学の学生実験で得られるデータなどは不純物も混じっていたりしてスペクトルが読みにくいことがありますが、演習問題で出てくるようなデータが解読不可能なほど汚いことはほとんどないと思います。
スペクトルデータをまとめる
スペクトルから読み取ったデータは表にしてまとめることができます。エタノールのスペクトルデータを読み取った場合について、上記では省略していたヒドロキシ基の水素も加えて表にまとめると以下のようになります。
δ(ppm) | 積分値 | 分裂様式 | J値 (Hz) |
3.32 | 2H | q | J = 7.0 |
2.15 | 1H | s | |
1.75 | 3H | t | J = 7.0 |
ここで「δ」は化学シフトを意味しています。この欄にはピークの位置(分裂している場合は中央値)を大きい方から順に書きます。
「積分値」はそのままなので説明しなくて良いですね。
「分裂様式」はピークの分裂数を記入します。記号の意味は以下の通りです。
d:doublet(2本線)
t:triplet(3本線)
q:quartet(4本線)
quin:quartet(5本線)
$\vdots$
という具合です。分裂数を把握することによって、どのプロトンが隣接しているのかが突き止めやすくなります。3本線が更に2本に分裂しているときは「td」と書き、逆に2本線が更に3本に分裂しているときは「dt」と書きます。その他も同様です。ただし、重ねて書くのは分裂しているときだけです。「sd」とか「qs」などという表記はしません。
「J値」の欄にはJ値を記入するのですが、これは少し計算しなければなりません。まず分裂しているピークの分裂幅をppm単位で求め、これに測定条件である磁場の操作周波数をMHz単位のまま掛け算します。先程のスペクトルデータは500MHzで測定しており、分裂幅が0.014ppmと読み取れるので、これらを掛け算すると「7.0Hz」と求めることができます。
このようにしてスペクトルデータを表にまとめます。もし分子式が与えられていれば、この表をもとに構造決定することも可能です。慣れてくるとパズルのように構造決定できるので、演習を積めば積むほど面白くなってくると思います。