縄文時代、海はどこまで入り込んでいた?

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縄文時代の海は、現在の海岸線よりずっと内陸へ入り込んでいた地域があります。関東では、約6,000年前ごろの奥東京湾が、現在の川越付近や栗橋・古河付近まで入り江を延ばしていたと復元されています。ただし、縄文時代の日本全体が、同じ高さまで一様に水没していたという意味ではありません。

海進とは、海が陸へ広がること

海岸線が内陸側へ移動して海域が広がることを、海進といいます。氷期の終わりから温暖化が進み、陸上の氷が解けて世界的に海面が上がる過程は、縄文海進の重要な背景です。もともとの谷へ海水が入ると、枝分かれした細長い入り江ができます。

地図で考えるときは、「現在の東京湾の形を、ただ周囲へ同じ幅だけ広げる」方法では不十分です。低い谷に沿って海が入る一方、高い台地は陸として残ります。海岸線の移動距離は地形の傾斜に大きく左右されます。

海面が上昇して斜面の内陸側まで水が入り、その後の堆積で海岸が沖へ移る三段階の断面模式図
海進と堆積による陸化の概念図。実在の地域の正確な古海岸線を示す図ではありません。

「川越まで海」の意味を正しく読む

葛飾区史では、奥東京湾の西の入り江が川越市付近、東の入り江が久喜市栗橋・古河市付近まで達したと説明されています。同じ資料の海面が現在より2~3m高かったという記述も、その地域の復元を理解するための値として読むべきです。

これは、川越市や古河市という現在の行政区域が丸ごと海だった、という意味ではありません。低地の入り江と周辺の台地が組み合わさった地形です。また、縄文時代は長い期間を含みます。約6,000年前の図と約3,500年前の図を、同じ「縄文時代の海岸線」として重ねてしまうと、位置が食い違って見えます。比較には地域と年代の両方が必要です。

数メートルでも、低地では遠くまで変わる

単純な斜面で、地面の高さが水平距離xに対して$z=sx$と増えるとします。海面が$\Delta h$上がったとき、交点の移動は$\Delta x=\Delta h/s$です。勾配1/1000の斜面なら、海面2mの上昇だけで交点は2km移動します。勾配1/100なら200mです。

これは地形と水位の関係を説明する仮想計算で、奥東京湾の復元値を求めたものではありません。実際には斜面は一定でなく、川が運ぶ土砂が谷を埋め、地盤も上下します。現在の標高データで低い部分を青く塗るだけでは、当時の海岸線を正確には再現できません。

昔の海は、地層から調べる

海があった証拠は、内陸の地層に含まれる貝、珪藻などの生物化石、砂や泥の堆積の仕方に残ります。ボーリングで地下の地層を採り、どの環境でたまったか、いつごろ堆積したかを組み合わせて調べます。東京低地から中川低地の研究でも、ボーリングコアの堆積相と放射性炭素年代が使われています。

ただし、貝が見つかった地点を全て海岸線として結べるわけではありません。海底で暮らした貝なら、その場所は当時の海岸そのものではなく海の中です。貝塚は人が採集・運搬した貝を捨てた場所なので、その地点の直下が当時海だったとも限りません。生物の生息環境と、試料がそこにある理由を確認します。

海が退いた後にも、川が陸を作る

奥東京湾の入り江は、その後、利根川・荒川などが運ぶ土砂の堆積によって埋まり、低地が広がっていきました。海岸線が沖へ動く現象には、海面が下がる場合だけでなく、海面がほぼ一定でも土砂の供給で陸が成長する場合があります。

さらに地域ごとの地盤の隆起・沈降や堆積物の圧密は、陸から見た相対的な海面の高さを変えます。そのため、ある場所の「現在より何m高い」を全国共通の物差しにはできません。縄文海進を知る面白さは、昔の地図を一枚暗記することより、海面・地盤・川の作用が重なって、今の平野ができた過程を読み解くところにあります。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日。本文の数値例・模式図は、特記したものを除き本記事の説明用に作成しています。

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