大学の有機化学:化合物を表現する

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(※骨格構造式についてはこちら


✎まず、化学とは?

有機化学だけでなく、すべての化学は原子分子からなる物質を相手にした学問です。水はなぜ凍るのか、木はどうして燃えるのか・・・。そういった物質の性質に対する好奇心が化学の根本となる原動力だと言えるでしょう。人類は「なぜ、どうして」という素朴な疑問に客観的で科学的な理由を与え続け、様々な現象や物質の存在を確かめ、解明してきました。化学はここ数百年の間で驚異的な発展を遂げ、今や現代の物質文明を支える非常に重要な学問へと成長しました。

化学を学び、研究するには「共通の言語」が必要不可欠です。ここでいう共通の言語とは「英語」とか「日本語」といったものではなく、化学そのものを記述するために必要な「合言葉」のようなものを指しています。これまでに体系化されてきた数百年分の化学をたった数年間で学ぶためには、先人たちによって使われてきた共通語や表現の様式をきちんと理解し、習得する必要があります。

とはいえ、大学で化学を学ぼうとする皆さんであれば、既に基礎的な「言葉遣い」はマスターできていると思います。そこで、この章では大学の化学、とりわけ有機化学の分野に的を絞って話を進めていきたいと思います。

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✎構造式を知ろう!

あなたが友人から「プロパンの構造式を描いて!」と言われたら、どのような図を描きますか?

最もプリミティブなものとしては次のような図が思い浮かぶでしょう。

この表記法では$\ce{CH3CH2CH3}$という構造がよく分かりますが、枝分かれが多い分子だと水素がごちゃごちゃしますし、炭素数が$10$とか$20$とかになると、とてもではありませんが描く気が失せてしまいます。

次に単純な構造式の表現として、高校の化学では次のような表記法を習うと思います。

先程よりはまとまっていて見やすくなっていますね。これなら多少の枝分かれでも図が汚くなることはなさそうです。水素がまとまっていることで官能基が見やすくなるという利点もあります。しかし相変わらず描く手間は多く、大きな分子の構造を描くのは大変です。

そこで大学の有機化学ではもっとラクをして、以下のような極めてシンプルな表記法を用います。

すべての水素を省略し、炭素鎖のみを残した構造式です。この表記法に至っては炭素鎖の画数が1画(!)なので、描く手間はほとんど掛かりません。ただし、この記法には以下のようなルールがあります。

 

① 直線の両端、および屈曲部には炭素原子が存在する

② すべての炭素には省略された価標の分だけ水素が結合している

③ ヘテロ原子は省略しない

 

注意すべきものとしては以上の3つでしょう。因みに「ヘテロ原子」というのは「炭素、水素以外の原子」を指しています。他にも、炭素間三重結合は直線状になるように描く、などの決まりもありますが、とりあえずはこの記法に慣れてみましょう。

炭素骨格のみからなる構造式を用いれば、シクロヘキサンは次のように書き表すことができます。

実際のシクロヘキサンは平面構造ではありませんから、次のように描くと立体的なイメージが掴みやすいでしょう。

シクロヘキサン分子では、山、谷、山・・・と炭素鎖が折れ曲がりながら連なっています。これは$\text{sp}^3$炭素が正四面体の頂点方向に混成軌道を作るためなのですが、ここでは詳しくは触れません。

余った価標の分だけ水素が結合しているという約束なので、シクロヘキサン分子の各炭素にはそれぞれ$2$個の水素が結合しています。炭素骨格だけの構造式では水素の個数を骨格の情報から読み取らなければならないので、少し慣れが必要です。

もう少し例を見てみましょう。ベンゼンは以下のように表記されます。

これは高校化学の表記法と変わらないですね。さて、これに1つメチル基を付け足してみましょう。

高校有機でもお馴染みのトルエンです。これは炭素骨格だけの表記法によれば次のように表すことができます。

メチル基が省略されるので、多少は画数が減りますね。

イソプロピル基の場合はクメンとなります。これを炭素骨格だけで描き表すと以下のようになります。

このように、原子をいちいち書く手間が省けるので、炭素鎖のみからなる構造式は書き手にとって大きなメリットがあります。一方、読み手にとっては構造式を読み取って水素原子を補完する必要があるので、慣れないうちは少し戸惑うかもしれません。それでも、このタイプの構造式は複雑な有機化合物を表現するのに適しており、いずれその恩恵がよく理解できるでしょう。

そこで以下に例として幾つかの有機化合物の構造式を示しておきます。まずは世界初の抗生物質であるペニシリンの仲間であるアンピシリン(Ampicillin)の構造式を見てみましょう。

なかなか複雑な構造をしています。これがもし炭素骨格だけでなく、炭素原子や水素原子まで露わに描けと言われたらとても描く気になれませんね。なお、先述のルールにはありませんでしたが、ヘテロ原子に結合している水素原子は省略しないことになっています。自分で構造式を描くときは、$\ce{O}$や$\ce{N}$に付いている水素を勝手に省略しないようにしましょう。

続いて、HIV感染症の治療において阻害剤として用いられるマラビロク(Maraviroc)の構造式を見てみましょう。

先程のアンピシリンよりも原子数が増え、立体構造もより複雑になっていますので、炭素鎖だけの構造式を利用しなければかなり見づらい図になってしまいます。中心付近の$7$員環では一部の水素が省略されていませんが、これは炭素結合の立体配置の情報を図に反映させるためです。結合が環に対して垂直方向(アキシアル)なのか、水平方向(エカトリアル)なのかを一見して判別できるようにする配慮です。

さて、最後に癌治療薬の一つとして知られるパクリタキセル(Paclitaxel)の構造を紹介して締めくくりたいと思います。

非常に込み入った構造をしていますね。炭素鎖のみからなる構造式はこういった大きな有機化合物の構造を表現するのに適しているのです。これを高校化学の記法で描くのは至難の業です。

 


以上、幾つかの例を交えながら構造式の話をしてきました。

有機化学をマスターする上では構造式をしっかり読める・描ける力が重要ですが、これはあくまでも有機化学を学ぶスタートラインに立つための準備でしかありません。

次節では有機化学を学ぶ上でどうしても必要となる化合物の「命名法」について解説していきます。



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