最近は数学の話題ばかりだったので化学の話題を紹介しよう。
物理化学は数学を利用する場面が多く、生物系の学生からは敬遠されがちな分野であることは間違いない。巷には数学Freeを売りにしている書籍もあるようだが、最終的な理解のためには数学の力を借りない訳にはいかない。
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状態方程式(理想気体の場合)
さて、熱力学の内容でも特に基本かつ重要なのが完全気体の状態方程式であろう。これは高校化学でも教えられることになっており、ボイル・シャルルの法則やアボガドロの原理から帰納的に(経験的に)推測される、化学史から見ても重要な方程式である。高校化学の教科書では「完全」を省いて単に「気体の状態方程式」と呼ぶ場合もある。
(※注:理想気体(ideal gas)と完全気体(perfect gas)は同じものである)
完全気体の状態方程式とは、以下の式で与えられるのであった。
$$pV=nRT \tag{1.1}$$
ここで$p$は気体の圧力、$V$は気体の体積、$n$は気体の物質量、$T$は気体の温度であり、$R$は気体定数と呼ばれる定数である。SI単位系に従えば、$R$は$$8.31447… \ [\text{J}\text{K}^{-1}\text{mol}^{-1}]$$という値で与えられる。(有効数字は無限桁)
当然、気体の振る舞いがこれほど単純に記述される訳ではなく、化学を専攻する学生であれば、この方程式のパラメータには大胆な近似が含まれているという前提を理解しなければならない。そこで理想気体と実在気体のズレを調べるため、
$$Z=\dfrac{pV}{nRT}\tag{1.2}$$
という量を考える。$Z$は「圧縮因子」と呼ばれ、理想気体、つまり状態方程式を常に満足する気体を扱う場合は、常に $Z=1$ である。実在気体の場合は分子間力や実在する体積が無視できない領域で $Z=1$ の直線から大きく外れることになる。
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理想気体からの誤差
$Z=1$ からのズレ(=理想気体からのずれ)は大学入試の題材にもなる部分なので簡単に触れておこう。そもそも理想気体というのは
1.気体は絶えず乱雑に運動する。
2.分子の運動する速さが極めて大きいため体積が無視できる。
(衝突と衝突の間に分子が進む平均距離に比べて分子の直径が無視できる)
3.分子同士は衝突以外の相互作用をしない。
という3つの仮定を満たしており、気体をミクロ的に論じる場合、これらの仮定によって初めて初等物理が適用可能となる。高校では仮定1は自明のものとし、別個に扱うことはしなかったかもしれないが、これは気体分子の運動における三次元的な対称性を論じる際に不可欠な要素である。分子運動論はこれらの3つの仮定の上に立脚している。
実在気体の場合、仮定1はともかく仮定2と仮定3は当然ながら成立しない。
仮定2が成り立たない場合、つまり体積が無視できない場合であるが、これは気体分子が鮨詰め状態になっている場合を考えれば分かりやすい。実在気体の分子には体積があるのだから、ぎゅうぎゅうに押し詰められても体積は$0$にならない。このとき実在気体の体積$V$は理想気体の体積$V$よりも大きいのだから $Z>1$ となる。これが $Z>1$ となる場合のずれである。
仮定3が成り立たない場合、つまり分子間相互作用が無視できない場合であるが、これは気体分子が全く動かない状態を考えればよい。実在気体の分子は温度が高いほど熱運動が激しく、温度が低いほど熱運動が穏やかになる。熱運動が勢いを失って分子間相互作用による引力を振り切れなくなると、実在気体は凝縮を始めて液体に変化し、体積は大きく減少する。つまり、温度が低い場合に $Z<1$ となる。
高校化学の知識であればこれで十分だが、分子間相互作用の引力が分子直径の数倍程度の距離で働くことを知っていれば、それほど高圧でない(実在体積による反発が小さい)領域では分子間相互作用が優勢となると考えられる。実際、$300$~$400$気圧以下の領域において、比較的分子量の大きい気体(メタンなど)は $Z<1$ となっている。温度依存性の内容と合わせて手元の資料で確認して頂きたい。
気体の分子運動論の細かい部分に関してはここでは述べないが、完全気体の状態方程式によればある温度$T$における気体分子の根平均二乗速さ
$$c=\sqrt{\dfrac{3RT}{M}}\tag{1.3}$$
が単純な数学により導出できる。ここで、$M$は分子のモル質量である。根平均二乗速さ$c$は$(1.1)$式から導出されるので、当然近似が多分に含まれているのだが、概算値としての有用性は大きなものがある。$(1.3)$式は温度という得体の知れない物理量と、気体の運動速度という物理量を関係付ける重要な式である。これにより、$T$が大きい(温度が高い)ほど$c$が大きい(気体分子の運動が激しい)ということが理論的に裏付けられるのである。
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ファンデルワールスの状態方程式
圧縮因子$Z$は分子間相互作用と実際に考慮すべき体積によって$1$という値、即ち理想気体のそれから外れてしまうのは理解できたと思う。
このずれを補正するための項を導入した様々な状態方程式が提案されてきたが、その中でも広く認知されているものが「ファンデルワールスの状態方程式」というものだろう。Johannes Diderik van der Waals (1837~1923) はオランダの物理学者であり、この状態方程式に係る種々の研究成果により1910年にノーベル物理学賞を受賞している。独学の人で、暇を見つけてはライデン大学で講義を聴講していたという。彼の最たる業績は実在気体と理想気体のずれが分子間相互作用と体積によるものだと見抜き、多くの実験データを上手く説明できるような形で補正項を状態方程式に組み込んだことである。彼が1873年の論文の中で与えた状態方程式は以下の式である。
$$\left( p+\dfrac{a}{V_m^2}\right)(V_m-b)=RT \tag{1.4.1}$$
ここで $V_m=\dfrac{V}{n}$ は気体のモル体積である。この式は次の形で表されることもある。
$$P=\dfrac{RT}{V_m-b}-\dfrac{a}{V_m^2} \tag{1.4.2}$$
この方程式を$V_m$について解くと$V_m$の3次式が得られるが、代数的な解を得るには煩雑な計算を要する。そのため実際の計算には計算機を用いるのが普通である。
温度を固定してファンデルワールスの状態方程式による様々な等温線を描き、等温線の変曲点の挙動を観察してみる。これを手計算で行うのは無理があるので、数式描画ソフトを利用し$(1.4.2)$式を $P$-$V$ 平面にプロットすると良い。温度の上昇に伴って曲線が面白い動きをしていることが分かる。
例えば、試しに圧力を$\text{bar}$、体積を$\text{dm}^3$として、$a=3$、$b=0.04$、$R=0.08$を代入して概算してみると、およそ $T=277.77[K]$ 近傍で変曲点と極大点・極小点が重なるのが観察される。
変曲点と極大点・極小点が重なるというのはどういうことだろうか。実はこれが今回の本稿のメインでもあるのだが、ここからの話はそれなりに長くなってしまうので次頁に譲ることにする。
参考文献:
・アトキンス 物理化学(上)第8版(第1章~)
東京化学同人/第8刷(2015)
・マッカーリ/サイモン 物理化学(下)第1版(第16章~)
東京化学同人/第9刷(2013)
・化学・生命科学系のための物理化学 第1版(第2章~)
東京化学同人/第4刷(2008)